Sunday, March 11, 2012

小さな勇氣。Pray for Japan.

3.11 の地震から一年が経ちました。 

自分の周りにいる人達が、facebook mixi にビデオをアップしたり振り返りをアップしているのを見ながら、「震災」に目を向ける勇氣をたった今まで出せずにいました。 

もしかしたら、心の準備はまだできていないかもしれない。 

自分ともう一度向き合って、一年前の震災のことを書くということは、すごく勇氣のいることだと、今、我が身で感じています。 




地震が起こった時は友達と東京に出ていました。 
「自分が大震災の中にいる」という感覚が大きく、自分の想像を遥かに超える環境にもたくさんの人がいるという事実が、映像では観ているけれど、それが脳に伝わって感覚されてはいない、そんな状態だったように思います。 


その後も度重なる停電、発電所の爆発、マスコミの報道、に囲まれ、義援金だ応援だと言いながら、自分の行動の限界に心の奥では納得できないままに時を過ごしました。 


夏には被災地を訪れました。 
5ヶ月後もくっきりと残る津波の爪痕を目の当たりにして、そこに立っている自分と向き合うことができず、ただただ重い心を引きずりながら帰ってきました。 


その後アメリカに移り、日本と離れた地で自分のできることと信じて作ったビデオレター。たくさんの心温まる出会いに、日本は独りじゃないということを身をもって感じさせてもらうことができました。 


それからというもの、人の「心」という存在と向き合おうとし続けてきました。 

幸せ、人生の成功、自身の価値。 

そういったことを勉強するにつれ、たくさんの人が自分の心と向き合い胸を張れる人生を作る、その支えになりたいと強く思うようになりました。 
しかし、それと同時に自分の心のもろさ、弱さも自分で痛いほどみえてくるようになりました。 

頼りなく、力なく、情けない自分。 
その脇で将来の希望に胸を高鳴らせ、将来を考えるたびに興奮を感じる自分。 
そんな、両極端とも言える二つの心が自分の中で存在しているということが、全体の自分の安定感を失わせるような感覚を持ちながら、長い時間を過ごしてきました。 


もしかしたら、一人の人間が幸せになるということは、全体からみると認知できない程小さな変化なのかもしれません。 

人の人生を豊かにしようという活動は、その認知できないほどの小さい変化をせっせせっせと生み出そうとする作業なのかも知れません。 

そう考えると、自分が将来にやりたいと考えていることが恐ろしく小さく、同時に限りなく無意味に近いことに思えてきてしまいます。 




最近、心の会話の回数が減りました。 
近くにそういう話を一緒にできる人が少ない環境なので、仕方のないことかもしれません。 
その分、自分との会話の回数は増えたように思います。 

けれど、どうやら自分と向き合いながら自分を信じ続けるというのは、なかなか難しいようです。 

きっと人は、自分以外の存在との関係があって初めて、自分を信じる力を強くすることができるのでしょう。 

あらためて、人は一人では生きられないという言葉の味を噛みしめています。 





震災から一年。 
まだ、自分達にできることはたくさんあるはずです。 
それを一人で探そうとするのは、途方もないことかもしれません。 
けれど、隣の人と手をつないで、そのまた隣の人と手をつないで、そうやって少しずつ心のつながりを広げていくことで、自分のできることを広げられるのかもしれません。 

そして、日本が、世界が大きなつながりになればなるほど、大きな希望と幸せと、喜びとを感じられるようになるのかもしれません。 

それを信じ続けながら、自分の可能性と向き合っていこうと思います。 




震災で亡くなった方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。 
そして、今もがんばっている日本の方々、世界の方々へ、心から応援申し上げます。